森の梢に佇む

考えすぎないための生活哲学

持つべきプライド・捨てるべきプライド

一応私は進学校の出身だ。そこでの教育というのが良かったのか、悪かったのかはわからない。でも公立中学校でトップクラスだった私たちが受けた教育というのは常に現実を見る、という教育だった。

例えば、高校1年の1学期の中間テストでは東大の入試問題が出たりする。そこでできないと、「あなたたち、こんな問題も解けないの?お馬鹿さんたち。」と教師から言われる。そう、そこで天狗だった私たちのプライドは打ち砕かれる。自分達はバカだ。そう打ちのめされる。そして、テストの結果順にクラスが編成されていく。

しかし、例えば自分の頭で考えたことは褒められる。日本史の夏休みの宿題で、井上靖の「天平の甍」のような歴史小説を読んで、感想文を書くというものがあった。夏休み明け、みんな「天平の甍」を読んで感想文を書いてきた。しかし、私は、宿題の指示文を読んで別に井上靖じゃなくてもいい、と素直に解釈し、日蓮について書いた小説を読み、感想文を書いた。

結果、日本史の時間に私の感想文が読み上げられた。嬉しいというよりも私が解釈したことが正しかった、という確かな足場をもらった。みんなは傾向と対策を重視するので「天平の甍」の方がウケはいいと解釈したのだろう。今思えばそれも戦略の一つだ。

私のように、ニッチな戦略があるということを教師は証明したかったのかもしれない。他にも日本史を捨てて地理に特化して高得点を取っていた生徒は褒められていた。

古典の授業で先生の作った回答よりも優れている、ということから私の回答が取り上げられたりもした。そうやって自分のベースとなる「プライド」が形成されていった。私の実際にやったことで良いことであれば褒められる、そこにプライドを持つ、今思えばそういう仕組みだろう。

そういう自分の経験から行くと、出身校や勤めていた会社にプライドを持ち続けるということは、あまりいいことじゃないと思っている。それは企業や学校の認知度というかなりあやふやな尺度と、自分を紐づけるという危険があるからだ。

そんなものはすごくふんわりした尺度だ。他人との比較で優れている、そういうものは足場が悪い。他人との比較なんて、他人が変われば簡単に変わるものだし、企業の認知度だって、その会社の資金力で商売柄広告を打っているだけの賜物かもしれない。認知度は私が作った確かなものじゃない。

じゃあ、どういうプライドを持てばいいんだろうか?私が思うに、一つ一つ積み上げられる能力とか、困難に蛮勇ではなく、冷静に立ち向かえる能力とかそういうものじゃないかと思う。自分が一つ一つ積み上げたもの、それは確かな足場だ。例えば、仕事で培った、正確さだとか、一つ一つ積み上げた結果だとかそういうことだ。

天賦の才能というのも実は捨てるべきプライドに属しているかもしれない。私は確かにその「才能」を持っている。物事を構造化して見る能力だったり、人より早く答えを見つける能力だったりというものがある。しかし、それは一瞬のことで、積み上げたものじゃない。むしろそれは他人にとっては害になる場合がある。チーム戦では役に立たない。

私は高校時代に打ち砕かれたプライドによって、いまだに自己評価が低いまま、変なことには自信を持てない。ただ、私に残っているのは、自分の能力が低いという認識がゆえに直向きに努力し続ける情熱を、50過ぎても持ち続けられるという特質かもしれない。それが正解なら、高校の教育は正しかったのだろう。